皆様こんにちは。2011年3月11日。聖マリアンナ医科大学産婦人科に勤務していた私はちょうど春休みでした。妻が妊娠中でしたので、遠出の旅行などはせず自宅と周りでダラダラしていた時に東日本大震災が起きました。

妻の無事を確認し、揺れが収まったところでマンションの外に避難しました。そうだ、大学に行かなければ!震度5以上の地震があった場合、聖マリアンナ医科大学病院の職員は非番でも大学病院に集まること。そういう決まりがあります。

妻の許可を得て、車で、時々余震で揺れを感じながら大学病院に向かいました。多分あんな古いぼろっちい建物はきっと倒壊しているだろう。救命センターは比較的新しいから、救命にまず行こう、入院患者の救出と救急患者の対応だ!…と、倒れてない?!よかった。

産婦人科外来に向かいました。外来は大混乱。またおっきな余震が来ていよいよ倒壊するかもしれない。診察はしないで、患者さんが求める薬の処方だけして、一瞬でも早くこの建物から離れて頂くように。ひったすら処方箋を出しまくりました。

しばらく経ったある日、聖マリアンナ医科大学がDMATの募集を開始しました。私は当時の教授に直訴しました、私をDMATとして被災地福島に派遣してください、産科外来とアゼリア外来(更年期内分泌外来)、不妊外来も担当していたと記憶していますが、を代わりにどなたかに、変わってもらって私を福島へ行かせてください!と。

教授は仰りました。お前に被災地に行かれてしまうと、大学の産婦人科が回らない。申し訳ないが、被災地から神奈川に避難してくる方々と今通院してくださっている患者さんを守ることで貢献して欲しい、と。

悔しさとやるせなさと、不甲斐なさで涙を飲んで大学に留まりました。実際に福島から一生懸命に逃げてこられた若い、確か17歳くらいだったでしょうか、若い妊婦さんとそのお母様、元気な赤ちゃんを出産するまで、担当させて頂きました。写真は、退院の際に、私は手術か何かでお見送り出来なかったのですが、手紙を買うお金がないかけど、お手紙を書いて五十嵐に渡して欲しいと病棟の事務さんに渡して頂いたお手紙です。この小さい、短いお手紙ですが、あの日以来私は常に財布のなかにしまい込んで、大事な大事な私の心の支えになり、宝物です。

そして今日、川崎市医師会の理事に抜擢して頂き被災地に派遣させて頂けることになりました。妻のお腹の中にいた息子も12歳の立派な、親バカですが、少年になりました。あれから12年が経ちました。

2月の日曜日から木曜日までの4日間、産婦人科の私に貢献できることは少ないかもしれませんし、短い期間ですが、精一杯努めさせていただきます。あの時、一旦止まった別の時計が動き始めました。下を向いてしょげかえっていた当時の私に、肩を叩いて声をかけてあげられそうです。私を災害担当理事に指名してくださった川崎市医師会に深く感謝致します。そして、大丈夫だと思うけれども、なんかあった時には兄妹でお母さんを守ってね。大丈夫だ。スノーマンとケツメイシのライブに一緒に付き合ってくれれば、しばらくは機嫌はいい。頼りにしてるよ。では皆様、お元気でお過ごしください。